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コンデ・コマ (前田光世)

コマ伯爵という愛称で呼ばれた日本人が カーロス ・グレイシーに柔術 を教えたのが20世紀の初頭であったことは格闘技の世界ではすでに よく知られた事実である。しかし本名、前田光世、通称コマ伯爵と呼ばれたこの日本人が、最後の、そして最高の柔術家であったということではあまり知られていないのではないだろうか。 彼は柔術というものが他の何よりも優れているということを証明しな がら世界中を渡り歩いたが、いわば柔術の弟にあたる存在である柔道 の爆発的な普及により、柔術はそのすばらしい技術とは矛盾するよう に消え始めたのである。ユニークで魅力的で神話的なその日本人の生 涯について詳しく述べていこう。 前田光世は1878年、日本の本州の北に位置し、冬は極寒の地とし て知られる青森で生まれた。19世紀の後半に貧困に追い込まれたそ の土地からは、生計を立てるためと、極寒から逃避するため 、沢山の住民が東京や他の地域に移り住んだ。これらの人とは違い 、若き前田は1886年にようやく都心に移り住むまでを青森で過ごした。青森に住んでいる間は、地元の名門、弘前高校に通っていた 。彼はそこで、父親から教わり魅了されていた相撲に打ち込み 「相撲少年」として名を馳せた。級友との試合には当然のように勝っ ていた。 彼は東京に上京すると、国内で最も歴史のある学校の一つに通い 、やがて非常にレベルの高い大学に進学した。現在 、最高の教育機関として認められている早稲田大学である 。そこで彼は古流柔術の技術を学んだのである。その後彼は 、当時既に日本で最も優れた武道場と知られ、現在でもその歴史が続 いている柔道の道場、講道館の門を叩いた。 道場の創始者である嘉納治五郎は、柔道を作り上げるために沢山の古 流柔術の技術を収集した。後に東京オリンピックに柔道が採用された のは彼の功績である(しかし、これらは前田の生きていたころから随 分と後になってからの話である)。 この頃嘉納は、侍が戦場で刀が壊れた時にそなえ身につけていた戦闘 技術から、一部の技術や打撃を取り除いた「柔道」をようやく作り上 げた。これらの方針の変更が、今日の柔道と柔術の違いに結びついて いる。 その時代、講道館では毎月のように試合が開催されていた 。前田はこれらの試合で危険な目に合わないよう、そして勝利するた めに何ヶ月にも渡り厳しい稽古をつんでいたと予想される。 その努力の結果は、1898年12月25日、その(驚嘆すべき)実力をもってを示すことができた。彼は白帯ながら、5 ~6人の相手に簡単に勝利し、その場で紫帯に昇格した。西洋人がクリスマスを祝っているその同じ日に、前田氏は15人の相手を次々に撃破し、ついには黒帯の初段に認められた。このすばらしい選手の功績は、そこから始まったのである。 身長170cm、体重68キロというごく平均的な体格からはその強 さは全く想像できないものだった。彼は酒をのんだり歌ったりすることが好きで、路上で喧嘩を売られても一歩も引き下がることのない人間だった。運の悪い挑戦者を倒したりノックアウトさせるのにそう長くはかからなかった。柔道では着々と稽古に励み、1901年には3段に昇段し、東京大学、早稲田大学、学習院大学の柔道講師となった。
~ By Steve Kim

海外での挑戦

1904年、嘉納治五郎師範は柔道を普及させるために 、天才的な弟子である前田を呼びつけアメリカ合衆国に渡るように命 じた。使節として去る前、前田は師範から直々に4段位を認められた 。その年の11月前田は横浜港を出帆、年が暮れる直前に 、カリフォルニア州サンフランシスコに上陸した。その当時 、セオドア・ルーズヴェルト大統領が日本の文化と人々に興味をもっ ていたことが影響し、北米の人々は日本の武道について既に多少の知 識があった。山下という柔術の講師もいたほどである 。米軍本部では、護身術の技術を高めるため、既に柔術を導入していた。しかし、前田と使節団たちは加納が作り上げた「新しい 」武道である柔道の有効性を示すためにアメリカ人と戦うよう求めら れた。 前田は、ニューヨークの有名な士官学校で、レスリングの稽古もして いたフットボール選手と対戦することになった。前田は彼をガードポジションに引き込んだ。レスリングでは敗北を意味する床に背中をつ いた姿勢であったが、前田は躊躇なく戦い続け、アームロックで勝利 した。アメリカ人は一本負けを認めず、今度は前田の仲間であり加納 師範の生徒の一人で経験豊富な富田に挑戦した。なぜなら富田の方が 前田より多くの経験を持つので、より名誉なことだとヤンキース (ニューヨークの人々)は思ったのである(実際は、富田は 、選手というよりも講師であったのだが)。 不運にも、相手に足を動かないようにされた富田は屈辱的な敗北を帰 した。これに耐えられなくなった前田は富田らに別れを告げ 、非合法的な裏世界で対戦相手を募り続けながらニューヨークに留ま ったのである。その最初の対戦相手は、「ザ・ブッチャー(堵殺人 )」というニックネームで知られ、背丈が2メートルもある大男だった。前田は、数回叩きつけられたが結局アームロックで勝利したのである。 このような裏世界の戦いで、前田は三戦三勝した後 、専門家の間で歴史上最強のボクサーで称えられていたボクシング重 量級世界王者のジャック・ジョンソンに挑戦することにした 。この対戦を皮切りに、後にグレイシー一族が従ったように 、自分たちの技術の有効性を証明する手段として、ボクサーに挑戦す るという伝統が生み出されて行ったのである(エリオはジョー・ルイス、ヒクソンはマイク・タイソンにチャレンジした) 。同様にボクサーたちは「そのような挑戦には決して対応してはならない」という、ボクサーたちの立場からの伝統を作り上げていったのだ。

グレイシーという名の弟子

我々にはコンデ・コマの弟子であった頃のカーロス・グレイシーについて少なくない議論すべき情報があります。カーロスはコンデ・コマから25年間指導を受けた。コマはグレイシーに相手の力を使う事などを教えた(効果的なテクニックとして今現在MMA等で使われている)彼の根本をなす戦い方はテイクダウンをする前に、相手に近づく方法としてストッピングと肘を使う事にありました。アカデミー内で彼は嘉納治五郎によって作り上げられた ”乱取り ”を更に発展させて行きました。

1925年、カーロスは自らのアカデミーを創立します。彼は彼の弟子達に彼自身が経験し発展させてきた方法を指導しました。一方、コマは旅を続けました。しかし柔術はグレイシーが ”コマのアート ” を発展させるという任務を引き受けて以来、生き続ける事が保証されたのです。



 

ブラジリアン柔術の歴史